レイチェル・カーソン センス・オブ・ワンダー  「神秘的なものへの感受性」を取り戻す

読書・オピニオン

こんにちは、ハッシーです。

五月ゴールデンウイーク真っ只中。会社員である私も連休中、まことにありがたいことです。

山登りが好きで、長期休みは少し足をのばすあたりの山に、例年出かけていました。が、今年はコロナの影響もあり、遠出はせずに近所の里山を走り回るのと、本屋の梯子で過ごすことにしました。

長閑で安上がり。たいへん楽しい連休となっています。

節約した分、好きなように本を買うことがですます(嬉しい!)。とはいえ積読はしない習性なので、それほどお金はかかりませんが。

さて、今日は、前々から気にはなっていたが、なかなか読めずにいた、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」「センス・オブ・ワンダー」を二冊大人買いしてしまいました。

「沈黙の春」は文庫で300ページを超える分量なので、目下読み進めている最中。

「センス・オブ・ワンダー」の方は、あとがきまで合わせても60ページほどの分量ですが、とても美しく、大切な内容の本です。

内容は簡単に申しますと、レイチェルが甥(正確には姪の息子らしい)のロジャーと自然の中で過ごしたあれこれを詩情ゆたかな文章で綴ったものです。

センスオブワンダーとは、「神秘的なものへの感受性」と言うこと。ただしここで言う神秘的なものというのは、超能力者が空中浮遊したり、死んだ祖父が突然話しかけてきたりといったオカルトなものでは決してありません。

自然のー森の足元に、海辺の水の中に、かがんでみればそこにある美しさや神聖さのことであります。ただそれを発見するためには、「神秘的なものに対する感受性」が必要です。なぜなら、屈んでみても、そこにあるのは、一見なんのことはない落ち葉や、小さな草、蟻のような昆虫の営みーそういったものがあるだけだからです。

しかし、そのありふれた神羅万象こそ神秘的で真に美しく重要なものなのです。考えてみれば空中浮遊する超能力者が不思議なのなら、地球と私が万有引力で互いに引き合っている状況もまた不思議なものでありましょう。

「神秘的なものに対する感受性」は小さな子供の頃には誰もが持ち合わせているものです。子供は身近な自然のなかで飽くことなく楽しみを見つけます。

自分が子供だった頃を思い返しても、近所の水路でザリガニを自分の指を生贄に吊り上げてみたり、カマキリがバッタを捕食するのを眺めていたり、日々新たな驚きと発見の連続でした。

ただ、年がたけるにつれ、背丈が伸びるとともに土からの距離も離れていきます。そして次第に神秘的なものは姿を隠してゆきます。いや、変わらずそこにあるのに見えなくなっていくのですね・・本当に・・。

レイチェルもロジャーと言う子供と自然のなかで共に楽しむことによって、この感受性を取り戻し絶えず保つことができたのでしょう。

私も若い頃は、刺激的で人工的な楽しみに心を奪われていた時期がありました。夜の街、どぎついアルコール、クラブ・・。

そういった時期も人が成熟するためには必要なのかもしれません。

「木が木になるためにはまず芽吹いて苗木とならなければならない。いきなり木となると歪な木となるだろう。」

どこかの本で読んだ記憶があります。

しかし、40歳をすぎ、休日は山や森で過ごしたり、お寺で瞑想したりして過ごすことがが多くなってきますと、過剰な自意識や欲求も、秋の落ち葉のように散ってまいります。

すると本当に不思議なことですが、また子供の頃のように、周囲に神秘と美しさと好奇心がもどってまいります。

人間は歳を取れば、土に還帰る日が近づいてきます。若く成長する時期は土から離れていく時期。そう考えると、私は成長期を脱し、再び土に向かって歩みを始めたと言うことでしょう。

だた、歳を取ったからといって、誰もが「神秘的なもへの感受性」を取り戻せるわけではないようです。

私と同年代や、年上の人々の少なくない人たちが、いまだ「青春の夢」の中に住んでいるようです。

感受性は大抵の場合、その夢の残骸に埋もれていますので注意深く丹念に掘り起こさねばなりません。そのためにはまず森に出かけることをお勧めします。

「書を捨てて森にゆこう。」寺山修司風に言うとそんな感じ。

地表直近まで戻ってきた感受性ならばを森は間違いなく掘り起こしてくれます。

この本の中にある言葉で好きな言葉があります。少し言い回しは違いますが、

「感じることは、知ることよりも数倍大切なことである」

ふたたび寺山修司風に。「書を捨てて森に行こう。」

身を委ねて森を感じましょう。もう直ぐそこに懐かしい神秘は戻ってきていますよ。





 

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